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信仰について改めて思ったこと

「信仰について改めて思ったこと 」

 

 60代半ばの男性で、希少がんに分類されるがんを患っていた。痛みや息苦しさがでてきたのでホスピスに入院してきた。立ち上がることもできなかった。残された時間は一月程度と見込まれた。

 

 少しずつ息苦しさが増してきた。モルヒネや鎮静剤を使いながら苦痛の軽減を図った。元々多くを語る人ではなかったが、だんだんと話す言葉も少なくなってきた。

 その日は、顔色も悪く、険しい表情をしていた。呼吸は荒くなり、脈拍も増えていた。声をかけると、必死にこらえているかのように目をギラつかせてこちらを向いた。

「しんどそうに見えますが、どうですか」と問うと、頷いてくれる。

「いろいろと薬は使っていますが、十分ではないようですね。」再び頷く。

「しんどい中、こうして横になったままで過ごしていることは大変でしょうね。ほんとによく耐えていますね。しんどいことを完全に取り除くことはできなくても、その都度、薬を使っていきます。毎日、ほんとに大変かもしれませんが、何とかやっていきましょう。生きている限り、どんな条件の下でもなんとかやっていくしかないから。今日までも、長い人生をなんとかやってきたんやから、これからもどうにかしてやっていきましょう。親からもらった命、粗末にはできないし、きっと親もみてくれているから。僕らも傍についてちゃんとみているし。」何度も大きく頷いた。

そして、最期まで挫けることなく人生を全うした。

 

 病気が見つかったら治す、痛みがあったら取り除く、苦しみがあったら楽にする……

これらは現代人の誰もが求める当たり前のことである。科学技術の進歩はそれを可能にした。人間は欲望を肥大化させ、人生100年時代と言われるようになった。

だが、死の前に立たされる時は必ず来る。今の時代、迫り来る死と向き合うことは以前よりも難しくなっている。選択肢が増えて、悩みも深まっている。

 

 詩編90編10節には、人生70年、健やかでも80年とある。私自身もすでにその域に達している。

ここまで書き進めて、ふと信仰という言葉が浮かんできた。復活の箇所には、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と記されている。

信仰とは、この沈黙の神と共に歩むこと、そして天国への希望と共に死んでいくことと思うようになってきた。

 

 ウクライナの人たちの悲しみを心に深く刻みながら、自分自身はどんな死に方をするのかと改めて覚悟する日々である。

細井 順

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