· 

説教要約23/6/18「どうすることも出来ないときは」

「どうすることも出来ないときは」

創世記3:8~14

使徒2:36~42

 

 使徒ペトロの説教を聞いたイスラエルの人々は、十字架にかけられたイエスが、自分たちが長年待ち続けたメシアであることを知って愕然としました。そして、償うこともどうすることも出来ない罪に心を痛め、「わたしたちはどうしたらよいのですか」とペトロたちに尋ねます。

 

彼らに対するペトロの最初の言葉は、「悔い改めなさい」でした。さらに、「洗礼を受け」、「罪を赦していただき」、「聖霊を受ける」ことでした。

 

 私たちにとっても、自分自身の罪を認め、悔い改めることは簡単なことではありません。自分の罪を認めず、自分を正当化し、ついつい言い訳をしてしまうのです。それは私たちが神を全面的に信頼できないことが理由です。しかし、この時のイスラエルの人々には、特別に聖霊が働き、彼らは恵みによって悔い改めに導かれました。

 

 さらに彼らは洗礼を受けて罪を赦していただこうとしました。しかし悔い改めと洗礼は、罪を無かったことにするものではありません。依然として罪を持っている者が、神に罪ある者として丸ごと受け入れられ、愛されることなのです。それはイエス・キリストの十字架によって可能となりました。十字架で流されたキリストの血潮の恵みによって、神ご自身が特別に「あなたには罪がない」と認めてくださるのです。

 

 そして、罪がないと認めていただいた者が、洗礼を受けることは大切なことです。洗礼は自分が罪人のままで受け入れられ、愛されていることを信じた人の心の中に与えられる安心の「しるし」です。なおも自分の罪を思い出して悩み苦しむ時に、聖霊がその人の「しるし」に働きます。それによって神の愛が示され、その人は癒されて安心を得るのです。

 

 洗礼を受けた後でも何度も罪を犯してしまう私たちです。しかし、そのような聖霊の働きによって、何度も自分を取り戻し、やり直して生きることができます。見捨てられて当然のような、どうしようもない私たちです。しかしその私たちを救おうと、丸ごと受け入れ、愛してくださる方が確かにおられるのです。

宮本幸男

HOME