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説教要約23/7/16 「安心していきなさい」

「安心していきなさい」

サムエル記上24:8~18

ルカ7:36~50

 

「罪深い女」はイエスに赦しと救いを求めるために、勇気を出して、イエスが滞在しているファリサイ派の人、シモンの家に行きました。「ファリサイ」という言葉は直訳すると「分離する」、他の人とは違う、自分自身と他人とを区別するという意味です。彼らは他の人間がいい加減な生活をしていても、神の掟である律法を守る生活を送る人たちでした。  

 

 罪深い女を見てファリサイ派の人は心の中で思いました。 「イエスがもし預言者なら、自分に触れている女が誰で、どんな人かわかるはずだ」、何故罪人を受け入れているのかと。イエスはその心の中の思いを見抜いて、ファリサイ派の人、シモンに語りかけ、短い譬え話をなさいました。

 譬え話の中で500デナリオン、50デナリオンと借金の額が違う二人の人を登場させます。金貸しは二人の債務者を憐れんで、借金を帳消しにしました。 この話を聞いたファリサイ派の人に、二人のうちどちらが金貸しをより多く愛するようになるかと尋ねました。ファリサイ派の人は、「より多くを帳消しにしてもらったほうだと思います」と答えました。

 イエスは彼から引き出された答えをもって、「罪深い女」が自分に対してしたことを称え、ファリサイ派の人が女に対してしなかったことを指摘しました。そして、「罪深い女」の多くの罪を赦されたことを宣言し、彼女が信仰によって救われたことを告げました。最後に、罪深い女に安心して行くように言って、平安と喜びを与えました。 ファリサイ派の人は、自分には罪がない、あるいは罪があったとしてもせいぜい50デナリオンだと思ったのではないでしょうか。

 

 「心をつくし、精神をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ」。そして「自分を愛するようにあなたの隣り人をあいせよ」。ファリサイ派の人、シモンの行動は、本当に律法に従っていたのか。細かな律法の規定に惑わされ、本当に大切な部分を忘れていたようにも見えます。

 隣人であり、主であるイエスに愛を示した女。イエスに愛を示さず、隣人を分離した、ファリサイ派の人シモン。シモンの罪は、この女ほどにイエスを愛していないということ。イエスが家に入られた時、足を洗う水を提供しなかった。客人に施すべき敬意を忘れていた。罪の女を軽蔑し、分離するべきだと考えたことでした。

 

 イエスは私たち全員の罪を赦してくださる方です。私たちの罪と向き合いイエス様に愛を示した時、イエス様は更に語って下さります。「安心していきなさい。」 、イエス様が与えてくださる恵みを受け取り、愛を伝える生活へと出て行きましょう。 

坂本子龍神学生

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