去る6月25日に、岩手県盛岡市のキリスト教共同墓地にある細井先祖代々之墓で細井家350年記念墓前礼拝が行なわれた。元々、細井家は源氏の流れを汲み、伊達藩の家臣だった。
私の祖父細井武夫さんは、昭和18年ガダルカナルで戦死した。細井家の中で最初にクリスチャンになったのは、私の父で、昭和16年12月7日に受洗した。祖母シズさんの受洗は昭和21年4月だった。私の母は、昭和21年に福島県福島市で受洗した。
そして、祖母シズさんが昭和40年代に細井家の墓を愛媛県宇和島市の寺から現在のキリスト教墓地に移した。
私は昭和39年、妻は昭和40年に受洗した。我が子三人の受洗は、長女愛は平成元年、次女望は平成8年、長男恵は平成9年で、皆、香櫨園教会で古河治先生から洗礼を受けた。
我が家のクリスチャンの系譜をたどると、私は三代目、我が子たちは四代目にあたる。私の小さい頃の思い出といえば、祖母と教会に行ったことがまず頭に浮かぶ。
今年、細井之墓には25人の親族が集まった。「いつくしみ深き」を賛美した後に、司式の船戸良隆牧師(私の義叔父)から説教「細井家の家訓」をいただいた。
「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもとどまって永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。」(ヨハネによる福音書6章27節)
この聖句から、求められる人のところに行って、求められる働きをしなさいと奨められた。
我が家の家訓とは、「隣人のために働くこと」と理解した。
私は、恵まれた環境の中に生を享けた。大学生のときから、そういう者の役割として、そうでない者のために働かねばならないという思いが常に頭の中にあった。今、隣人のために働いていることを感じながら仕事をしている。
かつては自分が生きていくために、生活の時間に追われていた。近頃は、人生の締めくくり方に関心がある。それは、細井順としてではなくて、神の僕として人生を全うすることである。
自分あっての世界から世界あっての自分に変わってきた。世界とは神によって秩序立てられて創造された世界である。その秩序が人間の傲慢さのために崩されてしまった。必要なことは、エーリッヒ・フロムのいう「持つこと」から「あること」への転換である。「持つこと」は自分ひとりを富ませることで、「あること」は神の僕として世界に働きかけ、天に宝を積むことである。
己を捨てて神の御心に叶う人生を過ごそう、死に至るまで。このことを船戸牧師の説教から再認識した。
細井 順