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説教要約2024/2/25「祈りにふれる」(兵庫教区礼拝交流プログラム)

 新約聖書 第二コリント4:16~18

 「祈りにふれる」 

 

 祈りとは何でしょう。祈りは見えない、形のないものなのでしょうか。祈りに触れることは適わないのでしょうか。

 

 2016年の夏、わたしが携わった東北教区被災者支援センター・エマオにボランティアにやって来また大学生は、「3.11」当時まだ中学生でした。「兎に角、自分の眼で見たかった」と異口同音に話してくれました。被災地から離れて暮らす幼き者が5年の時を経てエマオに辿り着くことが容易でなかったでしょう。恐らく「今頃行ったって何にもならへん」との言葉に挫けそうになったことでしょう。

 

 しかし「ここからしか始まらないことがある」と頑なに信じテレビ越しに見た日とから変わらない思いを心にギュッと握りしめやってきたのです。そのささやかな願いを遂げることは容易ならざることです。そこには硬い意志、まさに揺るがぬ祈り、ほんまもんの祈りがあったと知らされました。その姿に触れて頭が下がる思いと同時に、クリスチャンではない、祈りさえ知らぬ者たちの姿に祈りを見たのでした。

 その祈りに励まされ、汗を滴らしたあの夏の日のことを思い起こす時、今も胸が熱くなってくるのです。そして、その出会いに、その祈りが励ましを与え、その祈りが力となって、その祈りが希望へとわたしを今も導いてくれています。

 

 祈るだけでは変えられないと思い項垂れることがあるでしょう。それは独りぼっちの祈りなのかもしれません。祈りは広げられ、つながれて祈り、共に祈ること、祈りの友を得ることによって、その祈りは大きくこの地に根を張ります。つまり、祈りは見えないもの、形のないものでもなく、わたしたちは祈りに触れることとなるのです。

 

 生きて働くわたしによって、祈りの世界はこの世に露わされるのです。だから、いかに生きるべきかを神の前で問い、尋ね、求め、見出し、身を捩らせ、身体が動き出すために、わたしたちはなお祈るのです。そこに、祈りに満たされるよろこびが宿るのです。

兵庫教会 牧師 : 柴田信也

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