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説教要約2025/4/20「過ぎ去った時が未来を拓く」

「過ぎ去った時が未来を拓く」

イザヤ25:1~10

ヨハネ20:1~18

 

 マグダラのマリアは、イエスの遺体が墓から無くなって途方に暮れました。墓の外に立って泣くしかない彼女に、天使たちは「婦人よ、なぜ泣いているのか。」と呼びかけます。その呼びかけに対して、マリアはイエスを失った深い悲しみを語り始めました。そして、マリアが自分で後ろを振り向くと、誰かが立っているのが見えました。しかし、マリアは、その人がイエスだとは気づきませんでした。

 

 次にマリアは「マリア」とイエスに呼びかけられて振り向くと、彼女はイエスに気づきました。マリアは、イエスの言葉によって後ろを見た時に、初めてイエスの存在に気づき、喜ぶことができたのです。

 

 私たちも、聖書の中に書かれている神の言葉によって、自分の歩んで来た人生を振り返ることが許されています。神の言葉によって、人生を振り返えるならば、神がすぐ傍にいてくださっていることに気づくことができます。

 そして、神が与えてくださっている恵みだけが見えるようになっていきます。つまり、自分の悲しみや後悔の人生も、全く違うものに見えてくるようになるのです。

 

 私たちの人生や信仰には深い停滞の時があります。その停滞は、聖書の言葉と関係なしに、自分自身の人生を振り返るところに起こります。その時に、すぐ近くにいる神に気づくことなどありません。だから、私たちは聖書の言葉によって、自分が歩んで来た過去を振り返り、その中にある恵みの一つひとつを数えてみる必要があるのです。

 

 讃美歌「球根の中には」の2番の歌詞に「沈黙はやがて歌に変えられ、深い闇の中、夜明け近づく。過ぎ去った時が未来をひらく。その日、その時をただ神が知る。」とあります。今の苦しみにもいつか夜明けが来るのです。それは、聖書の言葉によって、過ぎ去った苦い時を振り返り、いつも共にいてくださるイエスを知ることから始まっていきます。

牧師 : 宮本幸男

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