
「不良クリスチャン宣言」
僕自身はクリスチャンホームに育ったこともあり、『初めて』がいつだったか記憶にない。教会付属の幼稚園に通っていたので、そのころ教会の日曜学校に通ったのが初めて教会へ行ったときになると思う。
僕自身は何度か居住地が変わったためそれぞれの場所で教会に通ってきた。そういった所も初めて行った教会として扱うべきだが、慣れというか、教会に通っている人に対する信頼というのか、だいたい新しく教会に来た人には意識して親切にしてくれる。
そこが初めて行った教会だと実感するのは、礼拝のプログラムの順序が微妙に違うと気づいたときです。
別の視点で、他の宗教にふれて感じることがあります。
例えば、宗教に触れる別の機会としては法事というのがあります。親戚には仏教の人もいるので何回忌とかの法事をきっちり守っておられるのは少し尊敬する。法事に出席するとお坊さんがお経を上げてその後少し講話をされる。僕自身、仏教の教えをよく知らないことと聞き手がどのような宗教か分からないことなどで、講話の内容は人としての正しい道を仏教のことばとリンクさせて話されたりします。
他の宗教とキリスト教の違いは、ここからは僕の理解が入るので間違っているかもしれないが、キリストは無条件ですべての人の罪を背負って十字架にかかってくださった。特定の人の罪だけを背負って十字架に架かられたのではない。だから、何かをしたら罪が許されるというのではない。それ以前に『許して上げるから思うとおりに生きてみなさい』と言う声が聞こえるような気がする。
間違えてはいけないと思うのは、本当はキリストの教えはとても厳しくて、その通りに生きることはかなり難しい。ときどき自分には無理だと思うこともよくあることです。しかし、キリストが復活されたように、やり直したり、間違っていることに気付けばやり直せるという安心はあります。
すべての人がキリストの赦しの守備範囲に入っている。ほとんどの人はそのことに気付くことなく生きていると思うが。だからと言ってすべての人に教会は行くべきだとは思わない。キリストの赦しは条件付きではないと思うので。人が教会に行くかどうかはその人にゆだねられている。キリストの愛や優しさに気付いて感謝したいと思ったときに教会へ行けばいいのではないかと思います。
そこで、気をつけなくてはいけないと思うのは、その時に教会にいる人が妨げになってはいけないと思います。クリスチャンのイメージが固まっているとすると、自分は教会へ行く資格がないなどと思われてしまわないかなと思います。そこで僕が思うのは『こんな人でも教会に受け入れられるんだ』といった多様性を感じてほしいこと。だから、と言うのは言い訳になるかもしれませんが、あまり優等生的なクリスチャンでいるより、こんなクリスチャンもいるんだという不良クリスチャンでいようと思います。人はそのままで受け入れられていると思うし誰でもキリストには愛され、大切にされていることを表現したい。
柴田健一