
「神の御心ならば」
民数記6:1~21
使徒言行録18:12~23
地方総督のガリオンの判決によって、コリント伝道の妨げが少なくなりました。今まで以上の成果が期待できましたが、パウロはコリントに別れを告げて船でシリア州に旅立ちます。この時、パウロは「神の時」を感じたのではないでしょうか。
私たちも、神の御心に従おうと思いながら生きていると「神の時」が分かることがあります。その時に、自分が示されているものに従い、それまで握りしめていたものを手放すならば、大きくものごとが動いていくことを経験します。
そして、パウロはエフェソに到着して伝道を始めました。他の町々のユダヤ人と違って、エフェソのユダヤ人たちは好意的で、パウロは彼らから「もうしばらく滞在するように」と頼まれます。ここでも伝道の大きな成果が期待できました。しかし、パウロは短時間の滞在でエフェソを去ろうとします。ここでもパウロは神の時を感じたのでしょう。神が先回りをして、もっと素晴らしいものを備えてくださっていることを確信したのかもしれません。
この時にパウロは「神の御心ならば、また戻って来ます」と言いました。この言葉は、単なる社交辞令ではなく、神の計画が成就することを願った祈りであったことでしょう。この後、パウロは1年も経たないうちにエフェソに戻ってくることになりました。その伝道は二年も続き、アジア洲に住む多くの人々が福音を聞くように導かれます。
パウロは人間の思いを超えた神の恵みの数々を受け取りました。その時々に、過去の自分の判断を神の御心だったと確信したことでしょう。共におられる主は、いつも先回りをして、自分に恵みを与えようとしていることへの確信をさらに深めていったことだろうと思います。
私たちは、「私はこうしたい。自分の人生がこうなって欲しい。」と、自分の計画や願いを中心において、「神の御心ならば」と言ってしまうことがよくあります。それは「神の御心ならば」という言葉を、自分勝手な願いに付け加えてしまっているに過ぎません。
そうではなく、ただ神の計画が成就することを願いつつ「神の御心ならば」といつも祈らせていただきましょう。その先に、自分の決断が神の御心と重なっていくことを私たちも経験することでしょう。
牧師 : 宮本幸男