
「許さないは赦されるのか」
ヨハネ福音書8:1~11
姦淫の現場を捕らえられた女性が、律法学者たちによってイエスの前に引き出されます。彼らは「律法によれば石打ちの刑だがどう思うか」とイエスを試します。対してイエスは「あなたがたの中で罪のない者が、まずこの女に石を投げなさい」と言いました。それを聞いた人々は、自らの罪を省みて一人、また一人と去って行きました。イエス様は女性に「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。これからは、もう罪を犯してはならない」と言って、彼女を赦しました。
姦淫の罪は、レビ記20章の、死刑に関する規定の中にあり、そこでは石で打ち殺すとあります。律法学者やファリサイ人には女に石を投げる権利がありました。同じように、私たちも、罪を犯した人に石を投げる権利があるのではないかと思います。自分たちが傷つけられた時、私たちも石を掴んで、その人たちを傷つけてやりたいと思います。この時ファリサイ人には、その権利があり、彼らは石を握っていました。私たちも傷つけられた時には復讐を望みますが、イエスは言います。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まずこの女に石を投げなさい。」
たしかに、私たちには、石を投げる権利がある。ただ、誰にその資格があるのかとイエスは聞いているのです。私はあいつに傷つけられたから石を投げる権利があると言える。しかし私にはその権利を行使する資格がない。私が石を投げる権利を持つように、自身を振り返ると、私に石を投げる権利を持った人が大勢いるのです。そんな中、自分が誰かを裁くなら、イエスが言う訳です。「ではその石を投げて、あなた自身も人から裁かれてみるといい。」「でも、人を赦すのであれば、あなたも赦される」。
私たちは復讐や不の感情をもって、相手に仕返しする権利を持っている。しかしその権利を放棄する選択こそが赦しなのではないかと思います。
「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」私たちの赦せない思い、その手に持った石は、神様に渡してしまうのです。そして一度自分の石をわたしてしまったら、それをどう使うかは神様に任せることにするのです。
神学生 : 坂本子龍